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東京高等裁判所 平成元年(行ケ)130号 判決

一 請求の原因一ないし三(特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨、審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。

二 本願発明の概要

いずれも成立に争いのない甲第二号証(本願発明の公告公報)及び同第三号証(昭和六三年九月三〇日付手続補正書)によれば、本願発明は、インクジエツト記録用インクに関するもので、特に容器の内部体積の急激な減少によりノズルからインクを押し出すことによつて噴射するインクジエツト方式のための水性インク組成物に関するものであること、この種インクジエツト記録方式に用いられるインクとしては、ノズルにおける目詰まりを生じないこと、記録に充分なコントラストを有すること、保存により物性の変化あるいは沈殿物を生じないこと等の諸特性が要求されるものであるところ、従来このインクジエツト記録用インクとしては水系インクと非水系インクとが存したが、このうち後者は欠点が多く、殆ど水系インクが使用されているものの、この水系インクにも溶媒が水であるために凝固点が高いので凍結し易くガラスヘツドが割れる等の問題が生ずること、しかるに本願発明では、多価アルコールを添加することによりインクに湿潤効果を与えて噴射ノズルの目詰まりを防止し、しかもその添加量を一定以下に押さえて印刷インクの蒸発乾燥速度の低下を防ぎ、また、メタノール、エタノール、プロパノールから選ばれた一価アルコールを添加することにより凝固点を降下させてヘツドの割れ等を防止し、しかもその添加量を一定以下に押さえてインクの表面張力低下による滲み出しを防ごうとするものであることが認められる。

三 取消事由に対する判断

1 取消事由一に対する判断

(一) 引用例の記載内容が審決の理由の要点2に記載されたとおりであること、及び、本願発明と引用例記載の発明の比較に関する審決の理由の要点3につき、両発明の各々の成分の配合量に重複するところがあるとの認定を除いて審決の認定するとおりであることは、当事者間に争いがない。そこで、両発明の各々の成分の配合量に重複するところがあるとの審決の認定の当否について検討する。

(二) 成立に争いのない甲第四号証(引用例)によれば、引用例は発明の名称を「静電印刷用液体インキ組成物」とする発明の特許出願に係る公告公報であるところ、同引用例には、水及びエチルアルコールに染料を分散させた従来のインキまたはベンゼン及びエチルアルコールに染料を分散させた従来のインキは、紙に印刷した場合周辺が滲んで拡がり、キヤピラリー(ノズル)が詰まるという欠点があつたのに対し、引用例記載の発明はその欠点を解消した旨の記載(二欄九行ないし二四行)があり、その特許請求の範囲として「多価アルコールと水溶性染料及び水、またはこれらに水に溶解する溶剤を加え不揮発分五〇%以下、粘度一〇〇センチポイズ以下に調整したことを特徴とする静電印刷用液体インキ組成物」との記載(八欄二行ないし五行)があることが認められ、右特許請求の範囲の記載から、引用例記載の発明におけるインキ組成物は、水溶性染料、多価アルコール及び水から成るものと、水溶性染料、多価アルコール及び水の他に更に水に溶解する溶剤を加えたものとの両方を含んでいること、即ち、引用例記載の発明のインキ組成物は、その必須成分としては水とこれに添加すべき水溶性染料及び多価アルコールから成るものであること、更に、任意成分として水に溶解する溶剤を添加したものも含まれること、水溶性染料、水のほか多価アルコールが必須成分とされているところからみて、この多価アルコールの添加により従来のインクジエツト記録用インクの前記のような周辺への滲み、ノズルの目詰まりという欠点が解消されたものであること、いずれの場合でも、その各成分の使用割合については特許請求の範囲において明示的な記載がないことが認められる。

一方、同号証によれば、引用例には、引用例記載の発明の実施例として、四つの液体インキ組成物の実施例(実施例1ないし4)が記載され、実施例1ないし3は、水溶性染料、多価アルコール及び水から成るインキ組成物の実施例であり、実施例4は、水溶性染料、多価アルコール及び水の他に更に水に溶解する溶液を加えたインキ組成物の実施例であるところ、これら実施例のインキ組成物の各成分の配合量を個別的にみると、水溶性染料については実施例1ないし4の全てにおいて五%であること、多価アルコールについては実施例1及び2において一〇%、実施例3及び4において五%であること、水に溶解する溶剤については実施例4においてn―ブタノールが一二%であることが認められる。

これら実施例のインキ組成物の各成分及びその配合量と本願発明のインクジエツト記録用インクの個々の成分及びその配合量とを対比すると(但し、一価アルコールについては、本願発明のメタノール、エタノール、プロパノールより選ばれた一価アルコールと実施例のn―ブタノールとを対比する。)、両者の各成分は、部分的にはそれぞれ配合量において重複するものは存在するが、各成分の全てにおいて本願発明の配合量と重複するような実施例は存在しない。すなわち、実施例1ないし3はメタノール、エタノール、プロパノールなどの一価アルコールを一切含んでいない点で本願発明と異なるものであり、また、実施例3及び4は多価アルコールの量が本願発明に及ばない点で本願発明とは異なるものであることが認められる。

(三) そこで、更に引用例記載の発明について検討する。

(1) 引用例記載の実施例1ないし3が引用例記載の発明における水溶性染料、多価アルコール及び水から成るインキ組成物の実施例であることは前認定のとおりであるところ、前掲甲第四号証によれば、引用例には右実施例1ないし3を静電印刷機に使用したところ、目詰まりもなく鮮明で良好なドツトが得られたことが記載されていることが認められ、同記載は、引用例記載の発明がこれらの実施例によつて実施可能であり、所期の効果が得られたことを示している。

(2) 次に、引用例記載の発明における水溶性染料、多価アルコール及び水の他に更に水に溶解する溶剤を加えたインキ組成物についてみるに、同インキ組成物は、引用例記載の発明における必須成分から成る前項のインキ組成物に、任意成分である水に溶解する溶剤を加えたインキ組成物であることは前認定のとおりであるところ、前掲甲第四号証によれば、引用例には使用に適する多価アルコールの種類に関する記載に引き続き、「水に溶解する溶剤例えばジオキサン、アセトン、セロソルブ類、カルビトール類、アルコール類、ピリジン、ジメチルスルフオキサイド等などを少量加えてもよい。」との記載(三欄三〇行ないし三四行)があることが認められ、前項の必須成分によるインキ組成物が実施可能で所期の効果が得られるならば、右インキ組成物にこれら少量にしてかつ水溶性の任意成分を加えても、これら任意成分は、多価アルコールの奏する目詰まり防止等の前記効果に影響を及ぼすことなく、該インキ組成物に容易に溶解または分散し、これによつて静電印刷用に使用できるようなインキ組成物が得られるものと考えることができる。したがつて、右記載は、引用例記載の発明の特許請求の範囲に記載された「水に溶解する溶剤」を例示的に示したものと認められる。

ところで、引用例には、引用例記載の発明における水溶性染料、多価アルコール及び水の他に更に水に溶解する溶剤を加えたインキ組成物の実施例として、実施例4のみが記載されていることについては前認定のとおりであるところ、前掲甲第四号証によれば、引用例には実施例4に関し「上記組成のものは不揮発分九・四%、粘度一・七センチポイズであつた。ドツト数五八〇〇で非常に細かなドツトで良好であつた。」と記載(五欄四一行ないし四三行)があることが認められるが、他方、いずれも成立に争いのない甲第五、第六及び第八号証(平成元年一〇月二日付、同二年一月二四日付及び同年八月七日付各実験報告書)には、原告が実施例4と同一の組成分のインキを調整して、これを常温で三〇分攪拌したもの(甲第五号証)、六〇℃、八〇℃で一時間加熱攪拌したもの(甲第六号証)、組成成分の蒸発を防ぐためビーカーをアルミ箔で覆い常温で三〇分間攪拌したもの(甲第八号証)のそれぞれの溶解性を調べたところ、これらはいずれもn―ブタノールが表面に浮いて二層に分離し、静電印刷用に使用できるようなインキ組成物が得られなかつた旨の記載があることが認められ、これら実験結果によれば、前記引用例の記載にもかかわらず実施例4と同一の組成分のインキが静電印刷用に使用できるインキとして実施可能であつたと認定することには、必ずしも疑問なしとすることはできない。しかしながら、引用例記載の発明における水に溶解する溶剤はn―ブタノールに限られるものではなく、アルコール類のほかに、ジオキサン、アセトン、セロソルブ類、カルビトール類、ピリジン、ジメチルスルフオキサイド等も例示されていることは前記のとおりであること、また、アルコール類についてみても、いずれも成立に争いのない乙第一〇号証(日本化学会編「化学便覧」(応用編)・丸善株式会社昭和四〇年一〇月二五日発行)及び乙第一一号証(日本化学会編「改訂2版化学便覧」(応用編)・丸善株式会社昭和四八年一一月一〇日発行)によれば、水溶性の一価のアルコール類(引用例記載の発明における水に溶解する溶剤としてのアルコール類が一価アルコールを予定しているものであることは、該アルコール類が必須成分としての多価アルコールに対置して記載されていることからみて、明白である。)としては、n―ブタノールのほか、メタノール、エタノール、プロパノールのような一価アルコールがごく一般的なものであるところ、n―ブタノールは七・〇八%しか水に溶解しないのに対し、メタノール、エタノール、プロパノールは一〇〇%水に溶解し、両者は水溶性が著しく異なるものであることが認められること、更に、後記三2(取消事由二に対する判断)に認定のように、従来からインクジエツト記録用の水系インクにはエタノールなどの一価アルコールの水溶性溶剤の使用が周知であることなどに鑑みれば、引用例の前認定の「水に溶解する溶剤例えばジオキサン、アセトン、セロソルブ類、カルビトール類、アルコール類、ピリジン、ジメチルスルフオキサイド等などを少量加えてもよい。」との記載については、実験的裏付を示されていないが、全く根拠なく記載されたものと認めることはできず、前記実験結果による疑問はあくまで水に溶解する溶剤としてn―ブタノールを添加した実施例4に関する疑問にとどまるものと解するのが相当である。けだし、化学分野の発明においては、化学が実験の学問であるところから、実施例が重視され、特許請求の範囲の記載の技術的意義が理論上または経験則上の予測可能性の裏付けを必要とする場合も少なくないことは事実であるが、化学分野の発明といつても、化学反応を伴うような比較的予測性の少ないものから、不活性固体物質同士の混合のような比較的予測性の範囲が広いものまで様々であって、その発明の技術内容や性質によつて予測性の幅は異なるものであるところ、引用例記載の発明のようなインクという液状の組成物は、その成分である水溶性染料、多価アルコール及び水に溶解する溶剤が水に溶解あるいは分散するという物理化学的な現象によつて生成されるものであり、それは不活性固体物質同士の混合の場合ほどの予測性があるとはいえないとしても、化学反応を伴うような場合に比べれば遥かに予測性があるものと考えられるから、その生成について常に実験により確認しなければならぬものとは限らないといい得るからである。

(3) そこで、引用例記載の発明において使用する、水溶性染料、多価アルコール及び水に溶解する溶剤の各々について、引用例にはその使用割合としてどの程度の数値のものが具体的に開示または示唆されていると認められるかにつき検討する。

まず、引用例記載の発明における水溶性染料の使用割合についてみるに、引用例記載の実施例の全てにおいて水溶性染料は五%の割合で使用されていることは前記のとおりであり、引用例が五%の水溶性染料の使用割合のものを開示していることは明らかである。

次に、引用例記載の発明における多価アルコールの使用割合についてみるに、引用例記載の実施例1及び2において多価アルコールは一〇%、実施例3及び4において多価アルコールは五%であることは前記のとおりであるところ、前掲甲第四号証によれば、ポリエチレングリコールを多価アルコールとして用いた実施例1と比較例1との比較において、比較例1はポリエチレングリコール+六〇〇〇(分子量七五〇〇)を四〇%としたために、その粘度が引用例記載の発明よりも高い一〇七センチポイズになり(但し、不揮発分は四五・一%で特許請求の範囲記載の制限範囲内である。)、そのためにノズルが詰まり連続的なドツトが得られなかつた旨の記載(四欄末行ないし五欄一二行、六欄一行ないし一二行)、及び、グリセリンを多価アルコールとして用いた実施例2と比較例2との比較において、比較例2はグリセリンを六〇%としたために、その不揮発分が引用例記載の発明よりも高い六一・二%になり(但し、粘度は一〇・九六センチポイズで特許請求の範囲記載の制限範囲内である。)、そのために印刷される紙面にうまくのらず、ノズルが詰まり連続的なドツトが得られなかつた旨の記載(五欄一三行ないし二四行、六欄一三行ないし二三行)があることが認められ、以上によれば、引用例記載の発明における多価アルコールの使用割合は、実施例に示された五%ないし一〇%といつた低い割合のものに必ずしも限定されるものではなく、その使用割合が四〇%に達しないものであれば「不揮発分五〇%以下、粘度一〇〇センチポイズ以下」の要件を満たし、ノズルの目詰まり等の従来のインクジエツト用記録インキの欠点を是正するものということができる(使用割合の許容される上限は明らかでないが、四〇%使用のときの粘度が一〇七センチポイズで右要件を七センチポイズを越えるにすぎないことからみて、その上限は四〇%をそれ程下廻わらないものと推認される。)。したがつて、引用例は、目詰まり等の防止効果を奏する多価アルコールの使用割合として、五%から四〇%に近いものまでの広範囲の使用割合のものが可能であることが示唆されているということができる。

更に、引用例記載の発明における水に溶解する溶剤の使用割合について検討する。引用例には、水に溶解する溶剤であるアルコール類の使用に関して、「水に溶解する溶剤例えばジオキサン、アセトン、セロソルブ類、カルビトール類、アルコール類、ピリジン、ジメチルスルフオキサイド等などを少量加えてもよい。」との記載があるほか、実施例4にn―ブタノールを一二%使用した例4が記載されていることは前記のとおりであるが、同実施例は、水に溶解する溶剤を加えたインキ組成物の唯一の実施例であるところ、その実施可能性に疑問があることは前記のとおりであり、このような実施可能性に疑問がある実施例の使用割合の記載をもつて具体的な使用割合の開示があつたものと認めることは相当ではなく、前掲甲第四号証によるも、引用例には右記載以外に水に溶解する溶剤の使用割合についての具体的な記載は認められない以上、引用例は、水に溶解する溶剤の具体的な使用割合についての開示を欠いているものであると認定せざるを得ない。

(四) 以上によれば、本願発明の組成成分のうちの水溶性染料及び多価アルコールについて個別的にみれば、本願発明の配合量と重複するものが引用例に開示または示唆されているものと認めることができるが、本願発明の組成成分のうちのメタノール、エタノール、プロパノールより選ばれた一価アルコールについては、これを組成成分として使用し得ること自体は示唆されているものの、実施可能なものとしてその具体的な使用割合については開示も示唆もないことが認められ、結局、水溶性染料、多価アルコール類及びメタノール、エタノール、プロパノールより選ばれた一価アルコール三者を同時に配合した組成としてみる限り、本願発明における組成割合は引用例に記載がないことに帰し、したがつて、審決の認定における、本願発明と引用例記載の発明とは各々の成分の配合量に重複するところがある旨の認定は、誤つたものといわざるを得ない。

しかしながら、本願発明では、多価アルコールを添加することによりインクに湿潤効果を与えて噴射ノズルの目詰まりを防止し、しかもその添加量を一定以下に押さえて印刷インクの蒸発乾燥速度の低下を防ぎ、また、メタノール、エタノール、プロパノールから選ばれた一価アルコールを添加することにより凝固点を降下させてヘツドの割れ等を防止し、しかもその添加量を一定以下に押さえてインクの表面張力低下による滲み出しを防ごうとするものであることは前記二(本願発明の概要)に認定のとおりであるところ、引用例には多価アルコールの添加により従来のインクジエツト記録用インクのノズルの目詰まりの欠点を解消し得ることが開示されていることは前認定のとおりであり、また、後記三4認定のとおり、インクジエツト用の水系インクにおいて、低温における凍結防止の技術課題が存在し、その課題解決のためにメタノール、エタノール、プロパノール等の一価アルコール類が用いられることは当業者に周知の事柄であつたことからすれば、引用例に、その組成成分として水溶性染料、多価アルコール、及び、水に溶解する溶剤として一価のアルコール類を使用することの開示があり、更に、水溶性染料の使用割合が五%の場合において、多価アルコールの使用割合が五~四〇%未満という広範囲な使用割合が示唆されていれば、引用例に一価のアルコール類としてメタノール、エタノール、プロパノール等の具体的な開示がなく、またその使用割合についての具体的な開示がないとしても、引用例に接した当業者がこれを実施するに際して、各成分のそれぞれの使用目的を考慮し、かつ、印刷の際のインクの速乾性や非滲出性等のインクに要求される基本的性質を損なわないように配慮しながら、水溶性染料、多価アルコール及び一価アルコールの使用割合を実験的に具体的に定めることは、当業者の当然になすべきこととして予測し得るところであり、したがつて、引用例に記載された発明に基づいて当業者が本願発明の構成のような各組成成分の使用割合を想到することは容易であると認めることができるから、審決の右認定の誤りは、本願発明の進歩性を否定した審決の結論を左右するものではない。

よつて、取消事由一は理由がないものと判断せざるを得ない。

2 取消事由二に対する判断

原告は、審決の「従来からインクジエツト記録用の水系インクの水溶性溶剤としてエタノールなどの低級の一価アルコールが用いられていることは、例えば引用例における従来技術の記載にも示されているように、当業者に周知である」との認定は誤りである旨主張する。

しかしながら、前掲甲第四号証によれば、引用例には「従来検討されているインキ例えば水及びエチルアルコールに染料を分散させたものや、ベンゼンとエチルアルコールに染料を分散させたものは紙に印刷した場合周辺が滲んで拡がり、しかも前記キヤピラリー(ノズル)が詰まるという欠点があつた。」と記載されている(二欄九行ないし一四行)ことが認められ、同記載によれば、水及びエチルアルコールに染料を分散させたインクは紙に印刷した場合周辺が滲んで拡がるとか、キヤピラリー(ノズル)が詰まるという欠点のあることが記載されていることは認められるが、該インクが使用不能であるということまでを述べられているわけではなく、また、そのように解すべき根拠や理由も見出しがたい。しかも、審決は、周知であることの一例として引用例の右記載箇所を摘示したものであつて、右記載箇所からは、水及びエチルアルコールに染料を分散させたインクが既に知られていたことが明白に認められるものであり、かつ、前掲甲第四号証によれば、引用例記載の発明は、かような従来のインクの存在を前提としてその欠点を解消することを技術的課題としていることが認められるのであるから、原告の右主張は理由がない。

また、いずれも成立に争いのない乙第一号証(特開昭五三―一二三二〇八号公報)、同第二号証(特開昭五一―一二九三一〇号公報)及び乙第六号証(特開昭五三―一四〇一〇五号公報)によれば、右乙号各証には、インクジエツトによる印刷用水性インクとして、メタノール、エタノール、プロパノール等の一価アルコール類が用いられること、このうち乙第一、第六号証には低温における凍結防止のためこれら一価アルコール類が用いられることが記載されていることが認められ、更にいずれも成立に争いのない乙第三、第四号証の各一ないし三(化学大辞典・共立出版株式会社昭和三五年三月三〇日発行及び同書昭和三七年七月三一日発行)によつて認められるメチルアルコール及びエチルアルコールの各用途に関する記載をも総合勘案すれば、メタノール、エタノール、プロパノール等の一価アルコール類が不凍剤となることは本願出願前において当業者に周知であつたことが認められ、これらの記載は、審決の周知事実に関する前記認定の妥当性を裏付けるものといえる。なお、原告は、右乙第一、第二号証はそれぞれ本願発明が出願される半年前に公知になつたもの、二年半前に公知になつたものであり、この程度の年月では周知になる暇がないから、これらをもつて周知ということはできない旨主張するか、乙第一、第二号証が公表されるまでの各期間は、本願発明の属するインクジエツト記録用のインクに関する技術の日進月歩の発展を考慮すれば、周知になるのに決して短すぎる期間とはいえない。

よつて、取消事由二も理由がない。

3 取消事由三に対する判断

原告は、引用例三欄二五行ないし三五行の記載において、同欄三四行ないし三五行の「これらはインクの吸湿性を向上させる為に有用である。」との記載における「これら」は「水に溶解する溶剤」のみを指すものと解したうえ、水に溶解する溶剤の添加目的はインクの吸湿性の向上にあるとして、引用例記載の発明における水に溶解する溶剤としてのアルコール類にはインクの吸湿性を向上させるのに有用でないメタノールやエタノールを含む余地はない旨主張する。

引用例三欄二五行ないし三五行の記載を、便宜、改行し番号を付すると次のとおりである。

「(1) 本発明で使用される多価アルコール類としては、グリセリン、(ポリ)エチレングリコール、プロピレングリコール、メチルグリコサイド、トリメチロールプロパン、トリメチロールエタン、ネオペンチルグリコール、ソルビツト、マンニツト等通常市販されているものが使用に適する。(2) 又水に溶解する溶剤例えばジオキサン、アセトン、セロソルプ類、カルビトール類、アルコール類、ピリジン、ジメチルスルフオキサイド等を少量加えてもよい。(3)これらはインクの吸湿性を向上させる為に有用である。」

先ず、原告は(1)の記載に関し、多価アルコールは、ドツトの滲みとノズルの目詰まりの欠点除去のため添加されるもので吸湿性向上とは無関係であるとして、(3)の記載は、(2)の記載に列挙された水に溶解する溶剤のうちインクの吸湿性向上に役立つものを指す旨主張する。しかし、多価アルコール自体が吸湿性を有することは当事者間に争いのないところであり、成立に争いのない乙第七号証(特開昭五一―一三七五〇六号公報)には「ノズル詰まりを防止するため、……ポリエチレン、ポリプロピレングリコール、エチレングリコール、プロピングリコール、……グリセロール等湿潤剤との水溶液を基本組成とするものが知られている。」との記載(二頁右下欄一ないし九行)があることが認められ、また、成立に争いのない乙第八号証(特開昭五〇―一七八四〇六号公報)には、「……ポリエチレン、ポリプロピレングリコール、プロピレングリコール、……グリセロール等湿潤剤……オリフイスでインクに用いられる溶剤の水が蒸発すると染料又はインク中の不溶成分が析出乾潤してオリフイスをつまらせる。このような欠点を除くためにこれらのインクでは湿潤剤をば組成、配合量を調整の上適用することによりオリフイスで乾固することのないようにはかつてある。」との記載(一頁右欄六ないし一八行)があることが認められ、右各記載によれば、多価アルコールを用いることでその湿潤性、吸湿性によりインク全体に吸湿性、湿潤性を与え、ノズルの乾燥を防ぎ、ノズルの詰まりを防止し得るものであると認めることができるのであるから、多価アルコールの添加とインクの吸湿性向上とは無関係であるとの原告の主張は理由がない。

次に吸湿性の観点から(2)及び(3)の記載をみると、原告の具体的に主張するところによれば、共にアルコール類であるブタノールは吸湿性向上に役立つがメタノール、エタノールは吸湿性向上に有用ではなく、したがつて、(3)に記載された「これら」の中にブタノールは含まれるが、メタノール、エタノールは含まれないというのであるが、(2)に列挙された溶剤のうちなんら限定なく記載された「アルコール類」(これが一価アルコールであることは既に述べたとおりである。)について、(3)の記載では、「これら」にあるものは含まれ、あるものは含まれないという不自然な文理解釈をしなければならないことになる。のみならず、成立に争いのない乙第九号証の一ないし三(溶剤便覧・石橋弘毅編・槙書店昭和五一年七月五日発行)によれば、(2)の記載において、右アルコール類と同列に記載されたアセトンの蒸発速度は、酢酸n―ブチルアルコールの一〇〇に対し七二〇と著しく揮発性であり、これはメタノールの三七〇、エタノール(エチルアルコール)の二〇三に比べても著しく揮発性であることが認められ、アセトンが吸湿性を有するとは到底考えられないから、原告の主張を推及すれば、(3)の「これら」の記載には、アセトンは含まれないという不自然な文理解釈を容認することになる。

かように検討すると、(3)の「これら」の記載をその直前の(2)に記載された「水に溶解する溶剤」を指すと理解するのは相当でない。前記引用例の記載に接した当業者は、(2)の記載により添加される溶剤は、任意成分であり、かつ少量であるから、これにより(1)に記載された多価アルコール類の吸湿性が影響を受けるとは考えないのが通常であり、(1)に記載された多価アルコールと(2)に記載された水に溶解する溶剤の混合物は、右溶剤の添加にもかかわらず、全体として吸湿性を有するものと認識するものということができる。したがつて、(3)の「これら」の記載は、吸湿性を有する(1)に記載された多価アルコール類と(2)に記載された水に溶解する溶剤の混合物全体を指すものと解するのが相当である。

そうであれば、(2)に記載された「アルコール類」にメタノール、エタノールが含まれないとする原告の主張は採用できず、取消事由三も理由がない(もつとも、前記引用例の記載は三つの文章からなり、単純に文理解釈をするならば、(3)の「これら」の記載は、その直前の(2)に記載された「水に溶解する溶剤」を指す如くみられるが、技術的見地からは到底そのように読むことはできないことは既に説示したところから明らかである。)。

4 取消事由四に対する判断

本願出願前に頒布された前掲特開昭五三―一二三二〇八号公報(乙第一号証)及び特開昭五三―一四〇一〇五号公報(乙第六号証)には、インクジエツトによる印刷用水性インクとして、低温における凍結防止のため、メタノール、エタノール、プロパノール等の一価アルコール類が用いられることが記載されていることは前認定のとおりであるから、インクジエツト用の水系インクにおいて、低温における凍結防止の技術課題が存在し、その課題解決のためにメタノール、エタノール、プロパノール等の一価アルコール類が用いられることは当業者に周知の事柄であつたものと認めることができる。

してみれば、引用例記載の発明において添加される水に溶解する溶剤としてのアルコール類は、引用例にはその旨の記載がないとしても、低温における凍結防止の目的で添加されるものであることは当業者の容易に察知し得るところであると解するのが相当である。そして、冬季の気温が-10℃以下となるような環境も当然に予測し得るものであるから、インクの凍結防止のための凝固点を-10℃以下に設定することも当業者の格別予測しがたい事柄ではなく、右設定された凝固点を形成するような一価アルコールの添加割合を実験的に決定することも困難なことでないことは既に説示したところから明らかである。

よって、取消事由4も理由がない。

四 以上、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとする。

〔編注1〕本願発明の要旨は左のとおりである。

ノズルより噴射され記録をおこなう凝固点が-10℃以下のインクジエツト記録用インクにおいて、0.5~7重量%(以下wt%と略す)の水溶性染料、7~30wt%の多価アルコール類及びメタノール、エタノール、プロパノールより選ばれた脂肪族一価アルコール(以下、「脂肪族一価アルコール」を単に「一価アルコール」と略す。)を5~20wt%含有させ、残部を水としたことを特徴とするインクジエツト記録用インク。

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